恥ずかしながら、大学院に入ってから、始めて剽窃(Plagiarism)という言葉を知った。剽窃とは簡単に言うと盗作のことだ。「盗作はダメよ。」ここまでは常識の範囲であり、理解に全く困らない。大学として、剽窃に厳しく対応する方針であることは、ウェブサイトにも明記されている。
問題は、何を盗作と見なすかである。はじめてこの記載を見たとき、自分がこの件でトラブルをかかえることになるとは思わなかった。結論から言うと、一文どころかほんの数語でも、原著からコピペしたと解釈されうるものは原則アウトなのである。もちろん、定義や専門用語などのように、一言一句違わずに引用が必要な文言もある。そういった文言には引用符をつけねばならないし、その理由も明白で筋が通ったものでなければならない。
つまり、全ての文章を自分の言葉で言い換える必要があるのだ。ハッキリ言って、ほとんどのノンネイティブ・スピーカーにとってこれはエベレストより高いハードルである。正確な言い換えは非常に高度なスキルで、十分な語彙と正確な文法で言語を操る必要がある。母国語なら3秒でできる言い換えも、時に1文に30分以上かけて、それでも正しいのか自信が持てないということが普通に起こる。参考文献の読み込みにもネイティブの2倍近い時間がかかる中で、ライティングにも何倍もの時間がかかる。外国人である限り超えなければならないハードルなのだが、これは本来目的としているコースのコンテンツに関する理解とは全く関係が無い。にもかかわらず、この点をネイティブと同じ基準で評価されることにモヤモヤするのは私だけだろうか。さらにできたエッセイをネイティブにチェックしてもらうのも、Proof readingだからダメだという。「あんた、一度でも良いから日本語で参考文献を読んで、日本語でエッセイ書いてみなさいよ。」と言いたくなる・・・。
ついボヤキが漏れてしまうが、話を戻すと、Turnitinはこうしたコピペ発見ソフトだ。当初は意味がよくわからなかったのだが、自分の書いたもの対して「盗作度」がパーセント表示され、原著と類似性がある箇所がハイライトされる。このソフトは類似性を指摘するだけなので、それが必要な引用なのか、盗作に当たるものなのかは個別に判断しなければならない。
Turnitinについては、大学のサイトにある説明や、Youtube、日本語サイトなどをチェックした。しかし結局、パーセントが何の為にあるのか、どのハイライトがよくてどれが悪いのか、よくわからなかった。非常に有用なソフトで多くの学術・教育機関で導入されているとあちこちに書かれているものの、何が有り難いのか、判然としない。。いろいろ教えてもらった結果、
- 「剽窃度(盗作度)」のパーセントに正解はないが、目安として10%を超える場合は、説明可能な類似性なのか評価者は詳細にチェックすることが多い。ただし、これは提出物のテーマや提出者のレベル、様式にもよるため一概には言えない。
- 逆に0%の場合も、不自然であり同様にチェックされたり減点されることがある(例えば、定義や特定の用語など、多くの場合、引用な必要な箇所が生じるのが普通)。
ということが分かってきた。
オリジナリティーが重視されるのであれば、参考文献に基づいて述べることが何故求められるのだろうか?
この質問に対するTutorの答えは、ブルームのタキソノミーを引き合いに出し、「学習の段階において文献の検索、分析、評価、は新しい知見の創造の土台となるもので、何処まで求めるかは学習者のレベルによる」、というものだった。彼女は過去の自分のエッセイを例に挙げ、Evaluationが不十分だとして良い評価を得られなかった、と続けた。日本語では、分析と評価の違いはあまり明確ではないが、英語では明確に区別されている。「私はちゃんと評価しなかったのよね。だって、評価するには遥かに多くの時間と労力が必要だから。」欧米人は小さい頃から、こういう枠組みに基づいたトレーニングを受けて育つのだろう。日本の教育の多くは、下手をするとUnderstandやApplyで止まっている。それより何より、学術に限らず、あらゆる分野において、日本人は情報を主体的に評価し判断するというトレーニングが決定的に欠けている気がする・・・。
また、話がそれてしまった。日本の大学では、ここまで厳しく剽窃について取り締まってはいないと思う。少なくとも、私が経験した一昔前の大学教育ではそうだった。もちろん、学位に関係する論文なら別だろうが、学期ごとのエッセイでここまできちんと評価することは、マンパワーや組織的な枠組みがなければできないことだ。そう考えると、モヤモヤする部分はありつつも、お金を払って教育を受けることの価値はこういう部分にもあるのかも知れないとも思う。
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